レスター伯の限界

なんもかんも政治が悪い......

スポーツ漫画のリアリティ ―『スラムダンク』から『おおきく振りかぶって』、そして『アイシールド21』にいたる途―

 誕生日の時のエントリーでも書きましたが、

 ゼロ年代は骨太のスポーツ漫画が豊作の時代だったと思います。

 基本的には細かい描写のリアリティが増していく方向性にあったような気がしますが、

 そのリアリティ描写の方向性を分析してみるとなんか面白い

 そんな思いつきを出発点にして、

 いくつかの作品を取り上げながら90年代からゼロ年代のスポーツ漫画について、

 いかにリアリティ(強度)を担保しながらスポーツを描いてきたのか

 その変化に着目しながらスポーツ漫画の歴史について考えてみたいと思います。

1.人間ドラマからスポーツドラマへ ―『スラムダンク』とスポーツマン―

 ゼロ年代の作品について考える前に、スポーツ漫画の歴史について簡単に振り帰ってみたいと思います。『巨人の星』や『あしたのジョー』から『タッチ』や『キャプテン翼』に至る80年代までのスポーツ漫画においては、スポーツそれ自体の描写のリアリティは現在に比べればそれほど重要ではなかったといえるでしょう。というよりも、スポーツ部分の描写が細部に至るまでリアルであるかどうかではなく、むしろスポーツをネタにしていかに「人間ドラマ」や「ヒーロー」を描くかということが重要であったような気がします。

 つまり、『巨人の星』ならば血を滲む特訓をして大リーグボールをマスターすることで巨人の星になり親父を超えることが、『タッチ』ならば女の子を甲子園に連れていくことが目的であり、その意味では根性論や恋愛論というスポーツの外部の論理によって補強された人間ドラマにリアリティがあるかどうかが作品の出来を左右する部分が大きいといえるでしょう。こうした漫画においては「スポーツ」を通じて描くことには意義があるわけですが、「スポーツ」そのものの本質を描くことが最も重要なテーマであるとはいえないでしょう。また、こうした漫画が出てきた60年代から80年代にかけては、スポーツ自体が国家として成長を遂げていた日本の象徴であり、「スポーツ選手=ヒーロー」というのが自然に読者に受け入れられる環境があったため、いかにヒーローの挫折と栄光の歴史を「スポーツという題材」を通じて描くかという部分が作品の評価につながっていたのではないでしょうか。

 また、こうした人間ドラマを強調する演出手法は、漫画(アニメ)だけでなく、実際のスポーツ中継においても同様の手法が採られていました。例えば甲子園中継においては地域性や勉強との両立など野球以外の要素が強調されることで、野球自体にそれほど興味がない人たちも「甲子園」というコンテンツを楽しむことができるわけで、視聴者は単に野球の試合を観戦するだけでなく、高校球児の人間ドラマをリアルなストーリーとして消費しているわけです。

巨人の星(1) (講談社漫画文庫)

巨人の星(1) (講談社漫画文庫)


 それに対して90年代に入ってくると、スポーツ漫画に一つの大きな変化が起こります。その最大の象徴が『スラムダンク』なわけであるが、『スラムダンク』の革新性は野球やボクシングのような「メジャーなスポーツ=知名度が高いため人間ドラマを展開するベースとして機能しやすい」ではなく、バスケットという「マイナーなスポーツ=プラットフォームとしての機能がほとんど期待できない」競技を描くという部分にこれまでのスポーツ漫画以上に重視されるようになります*1

 マイナーなスポーツを描くといことは、読者のなじみのない題材をテーマにするわけで、説明も含めて競技の魅力をリアリティを伴って伝えないといけないという最初のハードルが存在します。その場合には絵の説得力は非常に重要で、スラムダンクの魅力の一つが絵であることは否定できないでしょう。その点ではスポーツといっていいかは微妙ですが、ヒカルの碁』なども絵の魅力によって読者を囲碁の世界に引きずり込むという意味では似たような位置にある作品だと思います。

 ただ、『スラムダンク』をスポーツ漫画の歴史の文脈で考えるときにより重要なのは、バスケットじゃないとダメだという点です。同時期にバスケ漫画の連載を始めた『DEAR BOYS』の八神ひろきにも言えることですが、井上雄彦が『スラムダンク』を描いたモティベーションとしてバスケットに対する愛情がかなり大きなウェイトを占めていたという事は有名で、『スラムダンク』という物語の核は桜木花道が真の「バスケットマン=スポーツマン」になることに他なりません。花道は晴子の気を引くためにバスケットを始めたはずなのに、最後の山王戦で晴子に伝えたのは「(バスケットが)大好きです」という言葉であり、このセリフこそが『スラムダンク』のスポーツ漫画史における高い「意義=スポーツマンを描く漫画を確立した」を象徴しているような気がします。


 またこの時期の特徴として、作品にリアリティを担保するという意味では競技の専門家が原作や監修を担当する漫画が徐々に増えてきた事も見逃せません。『ありゃ馬こりゃ馬』や『ダービージョッキー』のような現役ジョッキーが原作・原案を担当した漫画は、スポーツ選手の副業といってしまえばそれまでですが、スポーツ界の側からその実状を描こうとするモティベーションも高まってきていたといえるでしょう。こうした流れは80年代までの段階でスポーツ漫画が市民権を得たこともあり、スポーツを広めるという機能を漫画が本格的に獲得したことを表してるといえるでしょし、逆にいえばJリーグ開幕もあってサッカーブームは起こりましたが、スポーツ選手が国民的なヒーローになることは80年代までと比べると徐々に難しくなってきていた事も関係しているでしょう。

 いずれにせよ、90年代に入り『スラムダンク』が登場することで、スポーツ漫画は文字通り「スポーツ」について描く漫画という新たなフレームが確立されていったことは間違いないでしょう。ただし、この段階のスポーツ漫画のリアリティは、絵によって担保されたものだったり、スポーツマンとしてのキャラクターの造形であったりと、まだまだ模索段階にあり、まさしく作品によって切り開かれ、創造されていったリアリティでした。

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

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2.「スポーツの世界」のリアリティに担保された物語 ―『おおきく振りかぶって』と『GIANT KILLING』―

 『スラムダンク』をはじめとした90年代のスポーツ漫画によって作られた土台の上で展開されたゼロ年代のスポーツ漫画においては、どのようにスポーツの世界のリアリティを担保するのかという点の違いが作品の個性につながってきます。その中でも、スポーツを取り囲む世界をリアルに描写することで、スポーツ漫画としての強度を作りだしている作品としておおきく振りかぶってGIANT KILLINGを上げることができるでしょう。
 
 まず『おおきく振りかぶって』から考えていきたいと思います。おお振り』に最もリアリティを担保しているのは、スイングや投球の描写*2や阿部のリードをはじめとする戦術面といったプレーの描写ではなく、むしろグラウンドをシェアしたり狭い場所を生かして独自の鍛練法を取り入れている普段の練習や合宿の描写、応援や差し入れだけでなく偵察などにも協力するPTAの姿*3といった野球を取り巻く周囲の環境の方にあります。毎回単行本の表紙カバーを外した裏に描かれるマネジャーの仕事などのちょっとした説明漫画なんかはまさにそうだし、マネジャーの描写なんかには元球児としてはすごい説得力を感じてしまいます
 こうした土台となる環境の部分にリアリティのある描写がなされているというのは、ヒグチアサが女性の作家であるという点とももちろん関係しているのでしょうが、一方で彼女は中・高とソフトボール部員として過ごし、『おお振り』を描くにあたって実際の高校野球部にフィールドワーク的に密着取材を行ってもいます。こうした経験と取材が高校野球という世界」の描写に強度をもたらすとともに、ヒグチアサが現場のレベルからしっかりと球児たちの姿を見つめることにつながってきます。なので、微妙におかしなところは残っているものの、ヒグチアサは彼女の視点で非常に生き生きと高校球児の姿を描き出すことには成功しているように思われるのです。こうした手法は聖地巡礼者を生み出すような徹底的に背景を作りこんだアニメとも被るような部分もあるわけですが、世界観を忠実に作りこみそこにリアリティを担保することの重要性は近年増してきていると思います。


 ただ、高校野球の世界のリアルな描写が『おお振り』のメインテーマではありません。世界にリアリティを担保したうえで主題として展開されるのは、球児たち、親、そして指導者の間のコミュニケーションのあり方、心の動きを描くことであり、その上で西浦高校野球部の一員としていかにまとまって目標に向かって突き進んでいくかということだと思います。『ヤサシイワタシ』を読まれた方ならば良くおわかりでしょうが、心理学を専攻していたというヒグチアサが描く心理描写は徹底的にリアルで、時に心を笑いながら刺すことも厭わないこともしばしばです。『おお振り』においても三橋と阿部や花井と田島のやり取りのようなメインになるコミュニケーション、切磋琢磨といったメインのラインにまじって、阿部父の阿部に対する「おまえ友達いないんじゃないのぉ?」のような台詞をノーモーションで放り込んできたりと油断ならないわけですが、こうした心理描写も緻密に積み上げられた世界の上で展開されることでより一層リアルに読者に届くわけです。こうした部分にもヒグチアサの手腕の巧みさが際立っています。

おおきく振りかぶって (1)

おおきく振りかぶって (1)

ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)


 『おお振り』が高校野球の世界を丹念に描いた作品だとすれば、GIANT KILLING』はJリーグのクラブの世界を描く漫画で、選手とコーチングスタッフだけでなく、フロント、サポーター、地域住民まで緻密に描写している点が評価が高いポイントであるといえるでしょう。しかも主人公の達海をイングランド帰りの監督という立場にしているところが非常に秀逸で、クラブを取り巻く人々を巻き込みながら、まだまだ発展途上の状態のJリーグ・クラブをマネージメントし、成長させていくという物語の展開は、イングランドにおける監督(=英語でManager)の歴史に照らし合わせても非常に説得的です*4。また、そうしたクラブの世界をリアルに描くことで、未だ発展途上にある日本のサッカー界(ここではファンも含めて)に対してもリアルなクラブのあり方についての像を提示するという役割も担っている気がします。

GIANT KILLING(1) (モーニング KC)

GIANT KILLING(1) (モーニング KC)

The Football Manager: A History (Sport in the Global Society)

The Football Manager: A History (Sport in the Global Society)


 このように『おお振り』と『ジャイキリ』の2作品に共通しているのは、スポーツを取り巻く環境をリアルに描写することによって物語が展開する世界の強度をしっかりと作り上げているという点です。『スラムダンク』の「スポーツを描く」から、「スポーツの世界を描く」という段階にいたったことで、より高度のリアリティが作品に担保されるだけでなく、その上で心理描写や競技中のドラマなどについてもスポーツの文脈にのっとった上でより自由に、かつ繊細に描くことが可能になってきていると思います。「おお振り」における打者とバッテリーの駆け引き、「ジャイキリ」におけるスポンサー問題や選手の移籍に関する描写などは、もちろんそれまでのスポーツ漫画においても全く見られなかった訳ではないにせよ、構造上のリアリティが担保されることでより魅力的に描くことができるようなったのではないでしょうか

3.漫画的な描写によるスポーツのリアリティの昇華 ―『アイシールド21』のすごさ―

 『おお振り』や『ジャイキリ』が野球やサッカーという基本的には誰しもがルールを知っているメジャーなスポーツを題材にしているのに対して、『アイシールド21』は日本では存在こそ知られているもののルールに関してはほとんど知られていないであろうアメフトを題材とした漫画である。しかも、前二者が青年・成人誌に掲載された漫画であるのに対して、後者は週刊少年ジャンプという王道少年漫画に掲載された少年漫画です。もちろん『スラムダンク』もジャンプに掲載された少年漫画であるが、その絵がらからもわかるように比較的青年向けを志向していた作品だといえ、それに比べると、コメディテイストも強く、絵柄的にもデフォルメが見られる『アイシールド21』はより少年漫画の文法にのっとった漫画です。

 しかし、だからといって『アイシールド』はリアリティを志向しない漫画ではありません。むしろ、漫画的な手法を用いることで、アメリカン・フットボールという読者になじみの薄い漫画のリアルを伝えようとする意図をもった作品であると考えます。近年ではマイナーなスポーツを題材とした漫画は増えてきていますが、その際にあえて漫画的な手法でリアリティを追求することの意義を考える上で『アイシールド』は格好の材料ではないでしょうか。では、『アイシールド』におけるリアリティはいかにして担保されているのか具体的に見ていきましょう。

 
 まず、『アイシールド』といえば主人公セナのデビルバットハリケーンやライバル進のトライデントタックルのように、いわゆる必殺技化したテクニックが思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。ああいった必殺技は確かに誇張表現されている部分がある事は否定しませんが、一芸に秀でていることが求められているアメフトにおいては一撃必殺に近い特徴を持っていることは選手にとって生存のために不可欠といっても過言ではないくらい必要なものです。例えばラインの栗田なんかがその巨体で何人もの選手を止めるシーンなんかがしばしば描かれますが、NFLのラインの選手のゴツサを目の当たりにすれば「ああ、まだまだ可愛いわあ」と思っちゃいますし、武蔵のキックやモン太のキャッチなんかも次の動画を見ちゃえば「むしろ緩い方向にデフォルメされてなくね」くらいに思ったりしないこともありません。

 たしかに、『アイシールド』は日本の高校生によるアメフトが題材であり、その意味では行き過ぎでしょうが、一方でプロのアメフトの凄さを考えると、『アイシールド』で描かれるアメフトの描写は漫画的ではあるが、あり得ないほど現実離れしているとは言えないでしょう。むしろここでいいたいのは、アメフトというスポーツは元々そうした超人たちが集まって行うスポーツであり*5、その超人っぷりをいかに読者に伝えるかが重要なのであって、ルールも知らないような読者を想定したうえなら必殺技という形はむしろ効率的で合理的な手段ではないかということです。それに『アイシールド』の場合には同様の形で多様な戦術の重要性も、デフォルメすることでわかりやすく伝えるなど、アメフト好きからみるとその手法の巧みさには毎回驚かされてばかりでした。*6


 同様の漫画的デフォルメはプレー以外の描写にも見られます。例えば蛭魔がヘリやその他のめちゃくちゃな手段で行う偵察や、まも姉による徹底的なデータ分析とサインの受け渡し、アメリカ大陸縦断のようなあり得ないトレーニングなど、あらゆる要素が面白可笑しく描写されている一方で、その一つ一つはアメフトを語る上で重要なものばかりです。またこんな話もあります。関西学生アメフト界の伝統の一戦である関京戦関学対京大)の直前になると、ギャング(京大)は練習中に青(関学の色)をまとった卒業生が練習に参加し、青を見たら条件反射で殺すつもりでタックルにいけるようにするなど殺伐とした空気が流れるというのですが、それを考えると泥門が試合前に「ぶっころす!」の掛け声で円陣を組むのもなんかも違った風に見えてくるのではないでしょうか。

 怪我をする確率が高く、一つのトリックプレーによって一気に流れを変えてしまえるアメフトにおいては、試合以外のトレーニングや戦術の組み立て、そしてモティベーションを高めていくために、試合以外の部分をシステムが他のどのスポーツよりも充実しているのであり、だからこそ、そうした試合以外の部分もデフォルメを織り込みつつきっちりと描いているのは『アイシールド』のすごさにつながっていると思います。


 そんな中で『アイシールド』において最も感心するのは、蛭魔の描かれ方です。蛭魔は本編の中でも示唆されていますが、泥門の中で最もアメフト的な才能に恵まれなかったプレーヤーといえるでしょう。絶対的な足の速さやキャッチ力を誇るセナやモン太はもちろん、あらゆる戦術を覚え込みオプションプレーまで含めて忠実にこなすことが出来る雪光にすら劣るかもしれません。もちろん、蛭魔はチームの頭脳として悪魔的な戦術によって泥門を勝利に導くわけですが、だからといってQBとしての才能では高見沢高見やキッドといった他チームのスターQBかないません

 しかし、そのことに誰よりも自覚しているからこそ絡め手を含めてあらゆる手段を使い、そして努力する姿は隠していますが誰よりも練習することで特徴のなさを補おうとします。そんな蛭魔のモティベーションの核となっているのが今のチームでクリスマスボウルを制覇することであり、そこに向かって突き進んでいきます。実に学生スポーツらしさを体現したキャラクターであり、手段こそメチャクチャですが、目的はこの上なくリアルといえないでしょうか。*7

 
 このように『アイシールド21』は『おお振り』や『ジャイキリ』とは違って描写自体でリアルを直接的に表現するのではなく、漫画的表現によってアメフトの世界のリアリティをデフォルメして読者に投げかけることで、結果的にアメフトの凄さを伝えようとする漫画だといえるでしょう。リアリティのある世界の構築によって作品に強度を担保するのではなく、素材の強度を信じた上で、徹底して漫画的にスポーツを描くという手法は、少年漫画というフォーマットにおいてはこの上なく効果的であり、その意味で『アイシールド21』はスポーツ漫画のリアリティについて考える上で非常に興味深い視点を提示してくれる作品なのです。

 ちなみに青年誌掲載作品ですが、ハチワンワンダイバー』における将棋の描写もこれに近いものがある気がします。どちらの漫画もアメフトや将棋に精通した人物による緻密なプロットと*8、それを大体にデフォルメした上で漫画として完成された表現にまで昇華出来る画力が合わさることで成り立っている作品だと思いますし、そうした作品だからこそ元来対象に興味を抱くことがない層にまで競技の魅力を伝えることが可能になるのではないでしょうか。

アイシールド21 (1) (ジャンプ・コミックス)

アイシールド21 (1) (ジャンプ・コミックス)

ハチワンダイバー 1 (ヤングジャンプコミックス)

ハチワンダイバー 1 (ヤングジャンプコミックス)

4.まとめ

 以上、スポーツ漫画の歴史を振り返りつつ、ゼロ年代を代表する漫画としておおきく振りかぶって』、『GIANT KILLING』、『アイシールド21』の三作品を取り上げることで、スポーツ漫画のリアリティについて考えてきました。ここ数年でリアリティのあるスポーツ漫画が増えてきていることは間違いないと思いますが、リアリティを担保し、作品の強度を高める方法は様々です。ここでは大きく二つのあり方について見てきましたが、もちろんこれ以外にも独自の方法でスポーツのリアリティに迫っているスポーツ漫画はあるでしょう。また、今回はほとんど触れませんでしたが、近代スポーツにおいては勝敗や記録という要素が締める割合は大きく、漫画の世界においても「いかに勝利させるか(敗北させるか)」、あるいは「いかに負けないことを理由づけるか」といった面も重要で、その点もスポーツ漫画におけるリアリティとも密接にかかわってくる問題でしょう。
 
 ただし、あくまでも「スポーツ漫画」であるという事の意義を考えるならば、スポーツとしてのリアリティを追求することと、漫画として魅力的であることが両立して初めて作品は評価を受けることが出来あがるのだと思います。その二つの要素の両立という点に関しては、今後もスポーツ漫画が大好きなものとしてはしっかりと考えていきたいなあと思っています。その一方で、いかに作品にリアリティを担保するのかという問題に関しては、スポーツ漫画に限らず漫画一般、もっといえばアニメや小説を含めたすべての物語作品にかかわる問題でもあると思うので、物語とリアリティという問題に関しても様々な角度から焦点をあてて論じていけたらと考えています。


 まあ、つまりあれです、今年はこういった形の比較的まとまった論考をたまには更新していくよってことです。次は、マジックリアリズムかな…(遠い目

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

*1:当時のサッカーの知名度を考えると「キャプテン翼」もマイナーなスポーツを書いたといえなくもないわけですが

*2:特にスイングの描写には毎回どうかなあと思わされることが多い

*3:うちは野球一家なので実体験としてはPTAの姿が一番実感ある

*4:かつてチェルシーの本拠地スタンフォード・ブリッジのスタジアム・ツアーに行った際に、ピッチ上ではそこまで優秀な成績を収められなかったラニエリがスタジアム設備改善を成し遂げ、それが今の栄光につながっているという話を聞きましたが、そうしたトータルのマネージメント能力が求められるのがフットボールの監督です

*5:アメリカの大学だと野球や陸上などとアメフトを掛け持ちする選手は多い。実際に2つのスポーツのドラフトにかかることもしばしばであり、ディオン・サンダースのようにMLBNFLの両方でプロになった選手も存在している。こうした部分もアメフトがアメリカンスポーツの頂点に君臨する所以である。

*6:ちなみに泥門が得意とするウィッシュボーンは、京都大学ギャングスターズの代名詞にもなった戦術で、ギャングはウィッシュボーンに代表されるオプションプレーによって学生アメフトのみならず、日本のアメフト界に革命を巻き起こしたことで有名

*7:個人的には神龍寺戦の0.1秒の差が聞いてくるシーンを読むたびに涙腺がヤバイことになりますね。

*8:ハチワン』の場合には鈴木大介8段が監修に付いているだけでなく、柴田ヨクサル自信がアマチュア有段者としてプロも認める将棋の実力者だったりします